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茶道の守・破・離とは

守・破・離とは修業における段階を示したものです。
茶道を学ぶにあたってもこの段階を踏んでいくことになります。

守とは師匠の教えを繰り返し行い身に付けること

茶道では先ず型を学びます。
亭主としてお茶を点てるにあたり一連の動きがありますが、その動きには型がありその型を身に付けなければなりません。客としてお茶を飲みますがそこにも型があり同じようにその型を身に付けます。

多くの人は難しく考えてしまいますが、実は日々の生活においても我々は自然と型を身に付けています。朝の挨拶や寝る時の挨拶、食事の仕方、顔や歯の洗い方など、それは親から学び必ず毎日行う事なので自然と身に付いていきます。家庭内では親が口うるさくガミガミ言うなんて事がありますが、ガミガミ言う側もかなりの労力を費やします。それでも親は子に何度も同じこと言い身に付けさせます。

そんな親子の関係が師弟の関係にも同じ事が言えます。師匠は口やかましく指導をし、弟子は何度も同じことを言われながらも身に付けていきます。悲しい事に最近では親が子に気を遣い、師匠が弟子に気を遣うなんて事も多く見受けられますので身に付く事が難しくなってきているように思われます。

話を戻しますが、「守」とは師匠から言われた事を何度も何度も繰り返し行い、身に付けていきます。そこに何の意味があるのかなどという疑問も持たずにただひたすらに繰り返します。同じ事の繰り返しですから飽きてしまい辞めてしまう人も少なくありません。しかしそれを乗り越え身に付いたら次の段階「破」に進むことができるのです。

破とは師匠の教えに疑問を持ち再確認すること

型を身に付けるといかなる時でも同じ動きができるようになります。そしてその型には本来意味があります。「破」とはその意味を考える事です。「守」では師匠から言われた事に疑問を持たずにいましたが、「破」では師匠から言われた事に対して自分なりに考え、そして答えを出していきます。

師匠が右手を動かしなさいと言ったら何も考えずに右手を動かしていた事も、何故右手を動かすのか考えるのです。師匠は右手と言ったが左手ではダメなのか?両手だとどうなのだろう?何故右手なのかその答えを出す為に時には師匠の教えに背く事もします。そしてそんな中で一番合理的かつ美しい表現をするには師匠の言った通り右手を動かすことに意味がある事に気付きます。所作の意味が理解できると身に付けた動きに味わいを持たす事ができるなどと言われています。先輩方の所作を拝見していると「美しいなぁ」と感じる時がありますがそれはきっと意味を理解して所作をなさっているからなのだと思います。

型を身に付け、意味を理解し味わいのある所作をする。そして師匠に見て頂きご納得頂く。全てにおいて認めて頂くと弟子は師匠の下から卒業します。

離とは師匠から卒業して弟子を取り導くこと

卒業してどうするのかというと、独自の考えでお茶の世界を生きていきます。そして弟子を取り自分が師匠から学んだように、今度は自分が師匠となり弟子に学ばせます。こうして茶道は四百年以上変わらず在り続けているのだと思います。ただ茶道ではその所作が驚くほどに沢山あります。また年齢によってもその所作が変わってきます。殊に五十歳までは同じ事をするにも十代、二十代、三十代、四十代と歳を重ねる毎に変化をつけなければなりません。つまり師匠から納得頂くには早くても五十歳を過ぎなければなりません。しかも十代から始めた人が五十歳を過ぎないと認めてもらえないのですから茶道を学ぶには長い年月を費やさないといけない事がわかります。

もちろん学ぶべき事は所作だけではありません。道具の事や歴史、書や花なども学ぶ事は沢山あります。ただ、今と昔では生活のリズムや過ごし方などに変化があり、稽古に費やすことのできる時間は限られてくると思います。稽古に来る日以外でもお茶の本を読み、頭の中でお茶の事を考える時間を作る事で身に付く事はあるのではないかと思います。

千穂菴ではお茶のお稽古以外にもお茶に関わる事を勉強する機会を作っております。私も社中の皆さんと本来あるべきお茶の深みを共に学んでいきたいと思っております。